
夏の「涼」の定番といえばゾクっと肝が冷える「怪談」……
今回のよみものでは、カレーの研究のために訪れたインド研修での実体験や、カレーにまつわるニシキヤキッチン流の怪談をお届けします……
道端に広がる香り離れぬ違和感

インドの町を歩いている時、ある異様な光景に足を止めた。視界いっぱいに敷き詰められた、茶色い破片。まるで何かの抜け殻が無数に積み重なっているように見えた。風が吹くたびに、その茶色い破片がかさり、かさりと乾いた音を立てる。
「……なんだ、これ?」
近づいてみると、鼻をつくスパイシーな香り。よく見れば、それはすべて生姜だった。どうやら道端で天日干しされているらしい。不気味な違和感を覚えていたが、ふと周りを見ると、地元の人々は誰一人として気に留めていない。ただの「いつもの風景」らしい。
「な、なんだ……生姜か……」
ひとつ息をつき、その場を離れた。しかし、少し歩いたところでふとした違和感に気づいた。
――なんだ、この匂い。
わずか数分いただけなのに、衣服の隙間から微かにスパイスが香る。気のせいじゃない。袖に鼻を近づけてみると、そこからもしっかりと生姜の香りがする。風に揺れる髪の中にも、まだ生姜の気配が残っている。あれだけの量の生姜の間を歩いたのだから当然か。そう思いながら肩をすくめる。……でも。
「いや、なんでちょっと俺、生姜くさくなってるんだ?」
スパイスを学んでいたはずが、いつの間にか自分がスパイシーになっていた。
インドの洗礼?異国のクスリ

インド研修に行くと、ほぼ確実にお腹を壊す。これは、毎年のようにインドへ研修に行くスタッフの間では「あるある」だ。研修の最中はもちろん、日本に帰国してから体調を崩すこともある。
レストラン、ホテルの食事はもちろん、現地の家庭で出される本場のカレーをたっぷりと味わう。そのどれもが日本のカレーとまるで違う。濃厚なマサラ、刺激的なスパイス。どれもこれまでにない新たなおいしさとの出会いで感動するが、その後胃腸の異変を訴えるスタッフが続出する。日本食を食べ慣れた私たちの体は、きっとこのスパイスの量にすぐには対応できないのだろう。
「これは洗礼みたいなものさ」と何度も足を運ぶスタッフは笑って話す。インド研修後の社内では「今回は誰が体調を崩したのか」なんて話が飛び交うほどだ。
当然、今回の研修も例外ではなかった。スタッフSが異変を感じたのは、研修2日目の夜のこと。妙に胃に残るカレーの感覚。そしてじわじわとやってくる胃痛。やがて吐き気、腹痛がSを襲う。そんなSの体調の変化に気づいたのは、現地のガイドスタッフだった。慌ただしく誰かを呼ぶ。少しして部屋に現れたのはTシャツにサンダル姿の男。医者だという。ホテルの部屋にその男と二人きりになった途端、男がチラリとこちらを見た。様々な不安が交差するSをよそに、彼はおもむろに薬を差し出した。
その薬はまさにショッキングピンク――
それも、ただのピンクではない。まるで蛍光ペンを固めたような、目が痛くなるほどの鮮烈な色。妙にツヤツヤとした質感。そしてさらには真っ白な液体も渡された。通常なら絶対に怪しんだはずだが、Sにその余裕はなかった。念のため日本から持参していた薬は全く効かなかった。あまりの苦しさになんでもいいから一刻も早く楽になりたい、苦しさから解放されたい、その一心だった。疑うこともなく、それらを一気に飲み干す。
翌日、あの苦しみが嘘のようにSは回復した。その後は体もスパイスに慣れたのか、一切体調を崩すことはなく無事に研修を終えた。日本に帰り、ふと考える。
「あの薬は一体なんだったのだろう」と。
どう考えても自然界には存在しないあのどぎつい色。聞き取れない異国の言葉でとにかく飲むように促され、もちろん薬の説明など全くない。成分もわからないものを、なんの疑いもなく体に取り入れてしまった。日本の薬ではまったく歯が立たなかったあの苦しみを一発で治したその効き目に、感謝もある一方で、得体の知れない恐ろしさも感じる。そもそもあれは本当に薬だったのか。あの男は本当に医者だったのか。考えれば考えるほど疑いが募る。帰国してからもなお鮮明に覚えているのは、あの『クスリ』の鮮明なピンク色。そして「なんだこんな症状、大したことない」と言いたげに『クスリ』と笑ったあの医者を名乗る男の顔だ。
ともあれ、あの時の私は『クスリ』に救われた。郷に入れば郷に従えというのは、きっと間違いない。
誰も気に留めない木のもとで、私は足を止めた

インド研修の中で、ショッピングモールに立ち寄った。初めて訪れるインドのショッピングモールに一同期待が高まる。
いざ! と車から降りたその時だった。駐車場で妙な違和感を覚えた。その違和感の正体は、駐車場の端にぽつんと立つ、ねじれた枝の木。まるでそこだけ別の時間が流れているかのように、他の景色と馴染まない。それなのに、現地の人は誰も気にする様子がない。
なんだ、この場違いな存在感は……?
恐る恐る近づいてみると、枝にぶら下がっている奇妙なさやが目に入った。細長く、ねじれた形をしていて、まるで干からびた指のようにも見える。
思わず背筋がぞくりとした瞬間、気づいた。
あ、これ……タマリンドじゃん。
なーんだ、ただのタマリンドか。いや、タマリンドなんだけど、日本のショッピングモールでは絶対に見ないやつ! 不気味さはすっと消え、代わりに湧いてくるのは「ここは、ちょっとした植物園だな……」という妙な感想だった。
消えたカレー

その日は長い一日だった。仕事に追われ、ようやく帰宅した頃には心身ともにすり減っていた。入浴を済ませ、心地よい脱力感に包まれながら、昨晩作ったカレーを温める。湯上がりに食べるカレーは妙においしく感じるものだ。すっきりした体に、スパイスの香りが心地よく染み込んでくる。仕事をがんばった私の一日の締めくくりにふさわしいご褒美だ。お気に入りのお皿にご飯を盛り、続けてカレーをよそおうとしたときだった。ルーが鍋の縁を飛び越え、飛び散った。
やっちゃった。せっかくのカレーが……。
慌ててキッチンの棚からティッシュを掴み、戻る。だが、そこには何もない。おかしい。確かに飛び散ったはずなのに、跡形もない。ルーも染みひとつない。まるで最初から何もなかったかのように、床はさらりと乾いている。
戸惑いながらも、「気のせいかもしれない」と自分に言い聞かせた。疲れているとありもしないことを考えてしまうのは昔からの悪い癖だ。勘違いするほどに今日の私は疲弊しているようだ。見当たらないカレーを拭き取ることはできないし、考えても仕方がない。残ったカレーをよそい直し、食卓につく。
もう一度カレーの香気を吸い込むと、不思議と落ち着いた。やっぱり今日は自分が思っているよりも疲れていたんだろう。食事を終え、ソファに座る。心地よい満腹感と温もりが眠気を誘う。着替えるのも面倒になり、その日はそのまま布団に潜り込んだ。
――深夜。寝返りを打った瞬間に、違和感が走る。
ひやりとする感触。肌に張り付く何かを感じた。一体なんだこれは。深い眠りから飛び起き、手探りで灯をつけた。
そこには――
服のふくらはぎに、べっとりと付く固まったカレーがあった。
スリランカで出会った宝石商

この日の研修は、インドからスリランカへさらに足を伸ばした。ホテルのロビーで一息ついていたスタッフKに、現地の男性が話しかけてきた。
「こんにちは。日本人の方ですよね?」
それは、旅先で聞くにはあまりにも完璧な日本語だった。どうやら男性は宝石商らしく、意気揚々と宝石を勧める。Kは話を逸らすかのように日本語が上手なのはなぜか尋ねた。すると男性はスマホを取り出し、日本に行ったことがあると答えた。そして、画面にはかつて日本で撮った写真が次々と映し出された。中にはその宝石商が写り込んだ写真もある。
だが、それはどれも明らかに時代を感じさせるものだった。古びた街角や、今は見ることのない看板、そしてどこか懐かしさを覚える風景……。
「これ、いつの写真ですか?」
と尋ねても、男性はにこりと笑うだけで答えない。不気味な沈黙が流れた。
Kは少し身じろぎし「そろそろ部屋に戻ります」と切り上げようとした。その瞬間、男性はグッと身を乗り出し「SNSを交換しよう」としつこく勧める。今までの穏やかな口調とは違い、僅かに切迫感が滲んでいた。Kは偶然にも携帯を部屋に置いてきており、「携帯がない」と答えるしかなかった。すると男は一瞬考え込むような表情を見せた後、
「またどこかで」
とだけ言い残し、静かに立ち去った。
数時間後、Kがロビーに立ち寄ると、その場がやけに静かに感じられた。さっきまで賑やかだった空間が、水を打ったように静まり返っている。
「にしても、さっきの男は……過去から来た男!? いやいや、まさかな」
ふと目を向けると、男性が座っていた椅子だけが、冷たく光って見えたという――。
いかがでしたか?
いつものよみものとは少し違ったテイストの、ニシキヤキッチンカレー怪談でした。
これを読んだあなたが、少しでもヒヤリと涼しくなりますように……。
それでは、また……。